旧約聖書の『創世記』にはいわゆる『失楽園』と呼ばれる挿話がある。
人間(アダムとイブ)は「善悪の知識の実」を食べることによって、楽園を失ったという話だ。
この逸話の意味するところは本当だ。
神さまは楽園として、この地球を創造された。
動物や植物で「俺は不幸だ」などと嘆き悲しみ、ノイローゼになるものなどいない。
野生の鳥や動物はみな美しい。
人間もその楽園の一部たった。
しかし人間だけが「善悪の知識の実」を食べ、思考の自由を獲得し自ら「不幸」というものを生み出した。
善悪は比較によって生まれる。これよりもあれの方がいい、これよりもあれの方が悪いというわけだ。
ところが本当は私たちが今日飲んだ水が、尿となり、海に流れ、蒸発し、また雨になって誰かの血となっていく。私たちは一体であり、地球とも一体だ、宇宙とも一体になっている。
そこには本来、あれもこれもない。みんなひとつだ。
「相手が 嫌いだ」とか「自分が嫌いだとか」「あいつのせいだ」とか。
野生の鳥で日々文句を口にしている鳥などいない。自由に飛んでおいしい木の実を食べ、異性を求めて美しい羽を広げ、きれいな声でさえずるだけだ。
人間は自らの思考で世界を分断し、相手と自分を隔て、自ら不幸になっている。
自然な状態に不幸は存在しない。
思考に不幸の源があると見抜いた禅は、無念無想の境地を求めて座禅を組んだ。
思考を超えたところに楽園(涅槃)があると気づいていた。
今さら古い教えをひもといて厳しい修行をしろというのではない。
ただ、自らの思考(考え)に不幸の源があり、人間もまた本来病気も不幸も存在しない、楽園に属していることを知ることが大切だ。
自分の考えの不自然さに気づき、自然の本来のあり方に気付いた時、その瞬間私たちは本来の楽園に戻っている。だから私たちが幸せになるためには自分の思考の不自然さに気づくこと以外にすることは何もない。
それが「善悪の知識の実」を食べることによって楽園を失なった人間の物語、創世記の失楽園の意味するところだ。
私たちが自らの不自然な思考に気づいた瞬間、この地球の、今私たちそれぞれがいるこの場所が楽園になる。
なぜなら、私たちは神さまが創造された地球の自然の一部だからだ。
小鳥のように羽を広げて自由に飛んで、おいしい木の実を食べて、美しい声で歌って恋をして暮らせばいい。
すべての人にそれが可能だ。
なぜなら人間は、神様の創造物である自然な地球の一部ととして創造されているのだから。