相性とはなんですか? 別れた人とも自分の考え方次第だったのかと思うと悲しいです。

  質問をいただきました。

> 「相性とはなんですか?運命は自分次第なんだなっていうのはわかってきました。
> 別れた人とも自分の考え方次第だったのかと思うと悲しいです。
> 相性というのがイマイチわかりません。」

 「分かれた人とも自分の考え方次第だった」というのは、大変な福音です。
 なぜなら自分の考え方次第でどうにでもなるからです。
 もしそれが自分の考え方次第でどうにでもならないことが原因であれば、神様が運命を変えてくれるまでは自分ではこの不幸から抜け出せないのならこれほど悲しいことはありません。自分の考え方次第というのは大変な福音なのです。

 つきあい始めたからには何かお互いにひかれるものがあったはずです。

 では、なぜ別れるのでしょうか。

 それはこの人と過ごすよりも、もっと別の過ごし方をした方が幸せだと思えるからです。
 それが絶え間ない不平不満だったのか、喧嘩だったのか、お互いに求めるもの(価値観)が違ったのか・・・

 逆に言えば、自分がいることで相手が幸せを感じていれば別れることはなかったはずです。
 一度はつきあったのだから何か相手に幸せを感じてもらえる部分がお互いにあったのです。

 しかし、なぜそれが保てなかったのか。

 よく買い物をする店があるとします。
 その店と自分は相性がいいと言えます。
 
 流行りで興味本位で行く店もあるでしょう。
 一見華やかで、目新しく楽しいです。
 しかし1年後3年後5年後10年後も、そのお店で買い物をしているでしょうか。

 なぜいつまでも通う店と、いずれ行かなくなる店があるのでしょうか。

 例えば、料理も特別おいしい訳でもなく、その割りに値段は高く、店員はいつも不機嫌で、不平不満や小言ばかり言っている店があったとします。

 あなたはそういう店に通うでしょうか?

 誰かがそういう店に行かないからと言って、非難できません。
 行かなくなって当然です。自分もそうです。
 それが自然なのです。

 ですから、ご主人が毎月働いて給料をもって帰っても、料理も特別おいしい訳でもなく、奥さんはいつも不機嫌で不平不満や小言ばかり言っていたら、ご主人が別れたくなるのは当然です。逆もまた真なりですが。

 それは誰もが店を選ぶときに行っているのと同じことです。

 そう思うことを誰も妨げることはできません。

 さて、そんな店でもつぶれないことがあります。

 それはその店がこの集落唯一の店であり、他に店がないからです。
 自分の家の帰り道にあり、それ以外の店に行くには遠くに行かなければならないからです。
 面倒くさいんですね。
 ですから、まずくて高くても身近なところで手を打ったのです。

 もし、自分の便利なところに、もっといい店ができたら「ああよかった!今度はこっちに行こう。」と誰でも思います。そして誰もが実際そうします。

 そこに何も悪いところはありません。

 ただそれが起こっているだけです。

 明治以前、ほとんどが農民として生きていた時代、「別れる」という選択はありませんでした。
 どんな厳しい条件でも土地にしがみつき、あらゆることに耐えて生きていくしか方法がなかったのです。
 女性が収入を持たず、自分だけでは生きていけない時代においては「別れる」という選択はありませんでした。

 しかし今は生活のために嫌でも我慢して一緒に暮らさなければならない時代ではなくなりました。
 
 それが豊かな時代になればなるほど離婚が増え、若い世代で未婚が増える理由です。

 そうまでして付き合い続ける理由は何もありません。

 そしてそれはとてもいいことです。

 明治以前のあらゆることに耐えて生きていくしかない時代に戻りたいでしょうか。

 誰も戻りたくないはずです。

 しかし、ずっと人々が通う店もあります。
 誠実で、おいしくて、価格もほどよく、行くといつも笑顔の店です。
 
 そして、時代は変化します。
 お客さんの好みも変化します。
 そういう時は、お客さんとコミュニケーションし、時代の変化を感じとり、
 「ちょっとこういうメニューを作ってみたよ。どう?」とツボにはまる提案をしてくる店です。

 お客さんとお店が共にいい刺激をしあって、よりよいお客であり、よりよい店であろうとしている店です。

 そういう店が身近にある時、誰がどこか遠くのよくわらない店に出かけて行くでしょうか。

 その身近な素敵な店を大切にしない訳がないのです。

 もし相手と共にいい刺激をしあい、よりよい自分であり、よりよい相手になる関係であったら、いつまでもその店に通い続けます。それが相性がいいということです。
 
 「あの店は高くてまずい」「あのお客は文句が多い」と言い合う仲であれば、なぜそんな店にいつまでも通うのか。それはただただ愚かなことです。

 よりよい関係を築ける相手、よりよい関係を築ける仕事、よりよい関係を築ける環境を求めて変化する時です。

 一生の間、不平不満や小言を相手に言い続ける夫婦もいます。あと2、30年同じように過ごし病気になって死ぬだけです。

 古い習慣を自ら断ち切れないのであれば、別れるのが最善の方法であることは多いのです。

 それがそれぞれの成長につながるならそうすべきです。

 変化が、お互いの目覚め、気づきを促すからです。

 それをやるのがお互いのためです。

 それが人の成長であり、人類の成長です。

 そこで問題となるのが未成年の子供です。

 子供は大切にされなければなりません。
 
 子供を犠牲にして自分が幸せになろうとするなど言語道断です。

 子供は未来の自分のご祖先です。

 自分が再び転生してくる魂の器は、今の子供たちの子孫でしかあり得ません。

 子供の健やかな成長に万全を尽くします。

 しかし親が別れることは必ずしも、子供を不幸にするとは限りません。

 むしろ変わる環境に適応していく子供たちは、大変たくましく立派に育っていく例をたくさん知っています。

 「片親の子供はたいてい立派なので、優先して採用する」という大企業さえあります。

 また不平不満の親を見るにつけ、子供は「結婚ってこんなものか・・・なら一人でいた方がよほどましだな」と思っているのです。

 不平不満の親が、子供に結婚には夢も希望もないという生きた見本を見せているのです。

 豊かな社会が新たな選択を可能にしました。

 今はご主人がいなくても、女性が稼げる時代になりました。奥さんがいなくてもルンバが家を掃除し、無農薬で地元産の健康的なおいしい食事をリーズナブルで笑顔で提供してくれる店ができました。

 わざわざ喧嘩をし続け、不平不満をぶつけ合いながら、一緒に暮らさなければならない理由は何もなくなったのです。

 それは素晴らしいことです。

 そして、今後この世の中の流れは加速することはあれ、以前の生活のために、あらゆることに耐えて生きていなねばならない時代に戻ることは決してありません。

 喜びの消えた関係は、自分の生活のために一定のことは我慢するからあなたも我慢しろというある種の取引です。ですから、不平不満と小言というある種の条件闘争をいつまでも繰り返すのです。

 今後、恋愛はたいへんなぜいたく品になっていくでしょう。

 いやもう既にそうなっています。

 それは喜ばしいことです。

 それは真の恋愛の時代の幕開けを告げるものです。

 どんなに女性が収入を得、家事家電が発展しても、素晴らしい男女の関係がなければ、
 決して心の底から満たされることはないからです。
 豊かな暮らしとは裏腹に、心の中はいつまでも虚しいままです。

 なぜ神が男と女をつくり給うたのか。

 それが真にお互いを満たし、真の喜びと創造性を発揮する基盤となるからです。

 これからはあらゆる「ねばならない」が落ちた、真に豊かで実り多い恋愛の時代を迎えることでしょう。

 それまで相性が悪いと感じるのは、双方に「ねばならない」がある場合だけです。

 真の相性を見つけるプロセスは自分の中にある「ねばならない」を落としていくプロセスです。

 自分の中の不平不満や文句を自ら解消していくプロセスです。

 そして、それができるのは自分だけです。

 自分の考え方次第なのです。

 そしてそれは素晴らしいことです。

 ぜひあらゆる「ねばならない」が落ちた、真に豊かで実り多い相性を見つけてください。

 それは必ずあります。

 もっと言うと、その人は既に存在しています。

 自分の中にある「ねばらない」というエゴの取引と、条件闘争の小言と不平不満を落としなさい。

 もはやお金や、生活のための利便性というモノだけで相手を縛っておくことはできない時代になったのです。

 自分の中に既に存在している「愛」を磨きだすことです。

 すると外にも同じものを見るでしょう。

 あなたの相性は正確に自分の「愛」をどれだけ磨き出したかによるのです。

 するとほら、素敵な恋愛はあなたのものです!

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