ご質問をいただきました。
榎本さんのブログで、色んなことに気づき、両親のことや、家族との関係にも自分の中で整理がつきました。
ただ、浄化中にも、大阪セミナーでも少しお話しした社長だけはどうにも受け付けられないのです。人は不条理なものだから、全て許すべき。上司も神が作ったもので、自分とももともとは同じ。みんなひとつにつながっている、、、そう考えようとするものの、あー、この人とだけはつながっていたくなーい!と、思ってしまいます。しばらく落ち着いていたんですが、数日前の社員への通達事項で、またみんなが落胆したり、無力感に苛まれたりしました。社長の態度や言葉を遺憾です、と表現したスタッフがいたことで、逆ギレ、ブチキレされ、みんないやーな気持ちに沈んでいます。考えるとないでおこうと思いつつも、気がつくと社長への、いわば恨みつらみ文句で充満している自分にびっくりしています。それででしょうね、ずっと良かった体調がまた悪いですもんね。また、榎本さんにお願いしなくちゃね。榎本さんが、裏切り者認定を受けたとき、それは大変だっただろうなぁ、と、思います。浄化が出来ているとわかってからも、まだすぐにはすっかり忘れるってことは出来なかったと思います。いったいどうやって、そんなご自分の気持ちを整理できたのですか?やっぱり、博多でも行って、いい曲で盛り上がって、美味しいお酒かなぁ(笑)(2017年4月28日 6:44)追伸ですが、、、
私が、使い手さんになったら、社員たちが嫌な気持ちをこらえているのを緩和してあげられるのでしょうか?
社長の、狂気が爆発したり、怒って怒鳴ったりすることを、抑えられたり、できますか?(017年4月28日 8:10)
まず最後の質問からお答えします。
>私が、使い手さんになったら、社員たちが嫌な気持ちをこらえているのを緩和してあげられるのでしょうか?
>社長の、狂気が爆発したり、怒って怒鳴ったりすることを、抑えられたり、できますか?
できませんって!(笑)
「自由意志」は宇宙の大原則
宇宙にはいくつかの大原則があってそのうち最も重要なものが「自由意志」です。
それぞれの存在は「自由意志」をもっています。
それを侵害することはできません。
人を思い通りに操作することはできません。
実は人間関係の不幸の大半が「人に何かを期待すること」から生じています。
例えば、この社長さんとのトラブルもそうです。
社長は社員に「何かを期待」し、社員も社長に「何かを期待」しているわけです。
それがお互いに合意できるものであれば何も問題ないわけです。
これだけ給料あげるから、こういう仕事をしてね。という合意ですね。
お互いが「それでいいね!」と思っていれば何も問題ありません。
これは男女関係でも、夫婦間でも、何かのグループなどでもすべて同じです。
私は「給料もって帰るから」「家事してね」とかですね。
お互いに「それでいいね!」と思っていれば何も問題ありません。
問題は、いつもお互いが「それでいいね!」とばかりは思えない時があるということです。
お互いが「それでいいね!」と合意できない時
例えば、この社長さんとあなたの関係です。
自然の力における私の裏切り者認定も同様ですね。
彼らにしてみれば、私は浄化できなくなって裏切り者認定されたのだがら「おとなしく反省」するのが私に「期待する態度」だったかもしれません。
私も浄化できなかったら「おとなしく反省」していたと思います。
しかし、私はすぐに自分が「浄化できる」ことに気づきました。
そうなると「それでいいね!」とは言えないわけです。
相手の言っている理由は筋が通りませんからね。
仕方がないから、私はどちらがいったい不合理か世に問わなくちゃいけなくなった。
黙っていると理不尽な主張を認めてしまうことになりますからね。
力ある人の理不尽さにどう対処するか。
さて、会社や組織、集団における力を持っている人からの嫌な人間関係、理不尽さにどう対処するか?
これは別に嫌じゃなくても、その中で順調にすごしても同じことが言えます。
その会社、組織、集団に「貢献」しておくのです。
会社なら儲けさせておくのです。
これは自分がもらう給料以上に大きなリターンをもたらしておくのです。
そうするとですね。
その会社、組織、集団における発言権が増すんですよ。
自分の意見が通りやすくなります。
何しろ自分は利益の源泉ですからね。
会社ってのはまぁはっきり言って儲かればいいわけです。
あいつに任せておけば儲かるから、あいつにやらせておけ、ということになります。
そうすると自分の「権限(自由裁量)」が増えますから、仕事が面白くなります。
そこで上司や社長に度量があって、こいつに任せておこうということになれば、
お互いに「それでいいね!」ということになります。
これがまあ、会社、組織、グループのあるべき姿です。
お互いが「それでいいね!」と合意できない時の2つの場合
ところがお互いに「それでいいね!」とならない場面が問題なのです。
場合分けで考えてみましょう。
・「まず自分の給料よりもずっと多く会社の利益に貢献していない場合。」
新入社員はそうでしょう。
自分はまだ会社の「利益センター」になっていません。「コストセンター」です。
これはもう謙虚に仕事を覚えるしかないですね。
少なくとも社長や上司、その会社はいままで社会貢献し、「利益センター」になってきたから、今の会社が存続しており就職できたわけです。
自分も「利益センター」になるまで発言権がないのは当然です。
仕事の仕方を知らないのですから!
謙虚に仕事を覚えましょう。
あなたが自分で選んだ好きな仕事ならがんばれるはずです。
ここで自分を「利益センター」にせずに、社長や上司を批判しても始まりません。
これはどうしようもない。
会社としてもこういう「コストセンター」ばかり抱えていたらやがて倒産しますから、首を切るしないない。
しかし謙虚に一生懸命仕事を覚え成長しようとする人は会社も育てようとします。
仕事を覚えることよりも「文句を言うことに」忙しい人から首を切るのがお互いの幸せのためです。
さて、謙虚に仕事を覚えて、自分も会社の利益に貢献する「利益センター」になってきました。
・「自分が会社の利益に貢献する「利益センター」になった場合」
それから「これはこうしたらいかがでしょう。」という自分の意見に耳を傾けてもらえます。
自分に発言権があるのは自分が会社の「利益センター」だからですよ。
会社に貢献しているからです。
社長がバカでなけばそのことに気づいています。
そういう人材を大切にしない会社は滅びます。
・自分が「利益センター」になったにも関わらず、どうしてもお互いに「それでいいね!」と折り合えなかった場合。
まぁ通常はこれも家族のためと「我慢して」働く人が多いと思います。
さあ、いよいよ「我慢の限界」に達しました。
2つの選択肢があります。
一つは「辞表」を懐に秘めて、仕事のことがよくわかっている「利益センター」として自分の実にまともな意見をぶつけます。
「辞表」を懐に秘めていると覚悟が違うのです。
そうすと相手にその「迫力」が伝わります。
そうすると意見が通る場合があります。
それもダメな場合、
いよいよ「それでいいね!」という合意点が見出せない状況になってきました。
その時は「お世話になりました。」と辞表を提出します。
その時自分は「利益センター」ですから、その仕事をどうやればうまくいくのがよく知っています。
その能力を元により自分の権限を認めてくれる他社に転職するか、自分で仕事を始めることになります。
経営者というのは自分の会社の利益について極めて敏感です。
この人材は「利益センター」であるということがわかれば即採用されます。
会社というのは利益をあげたいのですから。
実は以前仕事をしている時から、自分の給料の何倍も会社を儲けさせようと働いてると、仕事も覚えますし、その仕事ぶりを見た他社の社長さんから「うちに来ないか」と誘われることもよくあります。
それはその「仕事ぶり」が評価されたわけです。
いずれにしても「今の給料」に関係なく、仕事を楽しんで自分を「利益センター」にしていると、やがて、その自分にふさわしい仕事場が見つかってくるのです。
だから、いずれにしても自分を「利益センター」にどんどん成長させることなのです。
そのためには「人のマイナス面」を考えていても、何の自分の成長にもなりません。
赤提灯でグダグタ上司の悪口を言っても何も自分の人生は変わらないのです。
今の会社が嫌なら嫌で、どうやったら待遇が変わるのか、よりよい転職ができるのか。
その交渉力を身につけるためには、いずれにしても自分を「利益センター」にすることなのです。
「コストセンター」の人材を切っても会社は痛くもかゆくもないのです。
「利益センター」の人材を失ったら会社は打撃です。
だから交渉力がでるのです。
ポイントは、あくまで「自分の成長」に注力し続けること。
さて、ここまで見てきたポイントは、新入社員の時からあくまで「自分の成長」に注力していることです。
その会社に入社したときには、お互いに「それでいいね!」と合意に達していたのです。
その合意が続く間もあくまで「自分の成長」に注力し続け、
その合意が情勢の変化で納得いかないものになっても「自分の成長」に注力して、そこを去るのです。
ポイントがわかりましたでしょうか。
変化させ続けているのはあくまで自分です。
お互いに「それでいいね!」と合意に達している間は、その関係を楽しめばいいのです。
さて、情勢の変化で、お互いに「それでいいね!」と合意できなくなったらどうするのか。
「今まで、ありがとう!」と感謝して去るんですよ。
基本はそれしかありません。
それをね。
相手が変わればいい。
相手を変えようと努力する。
相手を変えようと圧力をかける。
文句を言う、大きな声を出す。
そういうのは不毛な努力です。
人間関係の不幸の源泉です。
相手にこうして欲しいと期待すること。
相手にわかって欲しいと期待すること。
相手にこうふるまって欲しいと期待すること。
人間関係の不満の原因です。
まぁやってみてください!(笑)
これが不毛な努力であり、果てしない不満の原因であることが理解できるまでやってみてください。(笑)
人は変えられない。
人には期待しない。
この立場でやっていける自分にならない限り、人間関係の不満から永遠に逃れられないということを見抜くことです。
裏切り者認定をどう気持ちの整理をしたか
>榎本さんが、裏切り者認定を受けたとき、それは大変だっただろうなぁ、と、思います。
>浄化が出来ているとわかってからも、まだすぐにはすっかり忘れるってことは出来なかったと思います。
>いったいどうやって、そんなご自分の気持ちを整理できたのですか?
はっきり、言ってなかなか整理できませんでした(笑)
嘘から発してますからね。
もともとの発端である「私が浄化できなくなった」という認識自体が間違っていたからです。
まぁ悔しかったですよ!(笑)
で、最終的にどうやって自分の気持ちを整理したか。
「自然の力の人に本当のことをわかって欲しいと期待すること」をやめ、
「自然の力の人に間違った理由で裏切り者人認定するなどというひどいことをしないで欲しいと期待すること」をやめたのです。
「自然の力の人たちが、私の7年半におよぶ貢献に関わらず、間違った理由で私を裏切り者認定したい」のならそれはそれで相手の問題です。
「自然の力の人たちが、「榎本は自分が浄化できると嘘をついている」と思いたい」のならそれはそれで相手の問題です。
相手がどうであろうと、何をしようと、相手に「何かを期待する」こと自体をやめたのです。
もちろん、お互いに「それでいいね!」と合意できませんよ。
私も合意できません。
だって事実じゃないんだから!
しかし、相手に何も期待しない。
期待すること自体が不毛なことであると理解した
期待すること自体が不毛なことであると理解したのです。
ただそのことを理解したのです。
もっと言うと、自然の力の人たちが事実無根のことで私を裏切り者認定しようと、私は何も困らないということに気づいたのです。
「何とか本当のことをわかってもらいたい」と思っている間はすごく苦しかったですよ。
事実無根の理由で何でこんなことするのか!何で本当のことがわからないのか!と思い続けていました。
その間は、どうしても腹が立ちました。
しかし私は自然の力の人たちに何も期待する必要もないし、何かを期待しなくても何も困らないことがわかりました。
「誰かに何かを期待すること」から開放されること、これそこそが真の自由。
つまり「誰かに何かを期待すること」なく存在できる自分になることです。
すべての不満は「誰かに何かを期待すること」によって生じているのです。
最終的に不満を根源から絶つには、
不満というものを人生から完全に追放するには、
「誰かに何かを期待すること」自体をすべて落とすことしかありません。
逆に言えば、「誰かに何かを期待すること」なく存在できる自分になることです。
その不満は、実は自分がまだ「誰かに何かを期待すること」なく存在できる状態ではないということを教えてくれているだけなのです。
で、私はどうやってその状態を達成したか。
私は自然の力時代にも、「どうしたらよりよい浄化ができるのか?」ということをずっと探求してきました。
ですから、自然の力時代の7年半の間ずっと私はナンバーワンでした。
ずっと教える立場にありました。
で、「裏切り者認定」後どうしたのか。
ずっと「どうしたらよりよい浄化ができるのか?」ということを探求し続けて今日に至っただけです。
自然の力の人に腹を立てたり、本当のことをわかって欲しいと思ったりすることは、まったく建設的ではありません。
時間の無駄です。
不毛なことです。
その人に腹を立てたり、本当のことをわかって欲しいと思う不毛さを見抜くことです。
それは間違いだと主張はしますよ。
かくかくしかじか。
しかし、本当のことなんだからわかるべきだという「期待」がものすごく自分を苦しめるのです。
事実無根のことで裏切り者認定するのは相手の問題だし、真実をわかろうとしないのも相手の問題です。
で、相手が「裏切り者認定」しようが、真実をわかるまいが、私はまったく困らないということに気づいたのです。
ただ「ほんとうのことをわかって欲しい」という「期待」だけが私を苦しめてきたのです。
なんだ!相手に何も「期待」しなくても何も困らないじゃん!
で「期待」を落としました。
私がただずっとやり続けていることは、自然の力時代も今も、「どうしたらよりよい浄化ができるのか?」それを楽しんで探求し続けているだけです。
それだけなんですよ!
そうすると、「誰かに何かを期待すること」なく存在できる自分になったのです!
人に何かを期待されることなく、誰かに何かを期待することなく生きること。これが究極の自由。
人に何かを期待されることなく、誰かに何かを期待することなく生きること。
これが究極の自由ですよ!
これが究極に不満のない状態です!
だって誰にも何も期待していないのですから!
>やっぱり、博多でも行って、いい曲で盛り上がって、美味しいお酒かなぁ(笑)
これが最高ですね!
この要点を見てください。
お互いに相手に何も要求していません。
お互いに相手に何も期待していません。
ただ、「こういうのってどう?」と自分の気持ちを表明し、
お互いに「それでいいね!」と思ったことを分かちあってるだけなんですよ。
お互いにもし何か「それでいいね!」と思えないことがあれば、何の強制もないんですよ。
お互いに相手の自由意志を完全に尊重しているのです。
お互いに「それでいいね!」と思って、分かち合えるなら、分かち合えばいい。
まったく何も問題ないです。
すっごく楽しいです。
なぜなら、問題の発生する余地がないから。
不満が発生する余地がないから。
お互いに「自由意志による分かち合い」以外の何もしていないから。
お互いに「誰かに何かを期待すること」なく存在できる自分であり、
分かち合い以外に何かを求めたり、期待する必要がそもそもないから。
これがまったく不満の生じない人間関係です。
ぜひ、博多でも行って、いい曲で盛り上がって、美味しいお酒でも飲みましょう!(笑)
お酒を飲むと性格や態度や行動などがキツく変わる人がいます。
そして記憶をなくす人も
私はその場面にあうといつも
この人お酒を飲まなきゃ楽しい人なのに~何がそうさせるのだろう?と思っていました。
けれど、それは相手への期待がある事と同じなんだとこのブログを読んで分かりました。
この人は楽しい人じゃなきゃだめ的な期待ですね。きっと
人を変えられる訳がない。
知っていたはずなのに!
変わるのは自分だけですもんね。
自分がその場面が嫌なら、その時は
その場を去ればいい。
あー帰ってお風呂入ろう✨
全て洗い流してしまえ❗
その人が酔っているのか?本音か?全く理解できそうもないのだから
無理にその場に居なくとも自由にさせてあげよう。
私も自由になろう‼と分かち合いです。
何かを思うとき、そこに何か期待があるんだと思いました。
よくあるのが
お風呂のお湯を触ると温かく
ラッキーお風呂入ろう❗と服を脱いでシャワーして湯船に足を入れると冷たかった⤵⤵
これも期待ですね(笑)
そして自分の押し付け固定観念でも
あるんだと感じました。
お互い期待する事のない関係
なるほど!でした
いつも疑問に思う事がブログにアップされていて驚きです
ありがとうございます。