無知は罪であり、知ることは力である

幸せになる方法

あらゆる神を語るものの間違いは神を独占しようとすることにある。自然の力でも南さんだけがイエスの魂であり、神様の力を降ろせる唯一の存在であると主張する。私が今回の伝授切れの件で天光地に行った時、南さんは「私をなきもにしている」と言ったものだ。その時は何のことだかさっぱりわからなかったが結局こういうことだ。

およそ神を語るもので、我こそは真の神の代理人であり、外はすべて偽ものである主張しないところがあるだろうか。ローマカトリックがそうであり、イスラムがそうであり、ユダヤがそうである。そこに対立と紛争の火種がある。

中世ヨーロッパでは魔女狩りの悲劇が起こった。純粋に祈り求める素朴な女性の中には、見えない世界からメッセージを受け取ったり、癒しの力を持つものが現れた。
それを当時の宗教的権威たちは極度に恐れた。自分たちはすでにそのような力を失っており、豪華な聖堂や衣装でその威光で保っていたからだ。

当時の宗教的権威は、教会以外の場所で神に祈り神につながることを禁じた。
人々はみな教会で罪を告白し、教会によって赦しの祈りを神に仲介してもらわなけばならなかった。神と人々との仲介役が彼らの力の源泉だからだ。

当時の宗教的権威そのような素朴で純粋な女性たちに次々と「魔女」というレッテルを貼り、火炙りの刑にしていった。
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人類を救おうと何とか経路を見いだしメッセージと癒しの力を届けようとした守護霊団の方々は、イエスの名を語るものが次々に彼女たちを火炙りにするのを目にし、その悲しみはいかばかりであっただろうか。

どのような残虐行為でも、一握りの指導者、権威だけで実行できるものではない。彼らに盲従する連中が、実際に彼女たちを火にかけたのだ。

実際にイエスを処刑し、彼女たちを火にかけたのは、「自然の力の伝授者のような権威に盲従する人々だ」。

中世では、民衆は無知にとどめられ、異端の本は焚書された。地図はルネッサンス期よりも後退し、海の果ては滝のようになっていると考えられた。絵はダビンチの遠近法から、二次元のべた塗りに後退した。

自然の力でも「本は読まなくていい」とされた、もちろん私のブログや今回のきっかけになったメールも厳禁だ。(笑)自分で読んで判断するのではなく民衆は無知のままがいい。権威の言うことをそのまま「はい」ときいて何でもする人々が一番がいい。

ついに宗教的権威たちは民衆の無知を利用して「免罪符」まで売り始めた。まぁあれやこれや次から次にありがたいものをやるからお礼をもってこいということだ。しかし、無知な民衆は「あ~そうなんだ」と従い疑問さえ抱かない。自ら検証することもしない

しかし、ついにマルチン・ルターが、これまでラテン語で書かれていて一般民衆には読むことができなかった高価な聖書を、初めてドイツ語に翻訳し、グーテンベルクの活版印刷を使って、大量に安価に民衆が読むことができるようした。

それで宗教改革が起こったのだ。

「何だそんなことはイエスさまは一言も言ってないじゃないか!」

それが民衆の知るところになったのだ。

もちろん、魔女狩りも、免罪符もなくなった。

無知は罪である。(ソクラテス)

知ることは力である。(フランシス・ベーコン)

その新たな知識を得て、洗脳がとけた自由に目覚めたプロテスタントがヨーロッパを脱して自由の国、アメリカを建国した。

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