・人は本来幸せに生まれてきます。
・不幸は人生のどこかの時点で、幸せになれない考え方を仕入れたことで生じます。
・その幸せになれない考え方を落とすことで、今日から幸せになれます。
「自分で幸せを見つけられない家族をどうやったら救い出せるのか」の記事の中に以下の部分がありました。
「話をするたびに私は「やりたい事をしたら?」
そもそもどうしたら、こういうことになってしまうのか。
それに気づくことによって、ここから脱する糸口にしていただけたらと思います。
幼児のころはみんなしあわせですよね。
積み木にしろ、ままごとにしろ、砂遊びにしろ、夢中になって遊びました。
しあわせです。
「幼子のようにならなくては神の国(しあわせ)入ることはできない」(イエス)ルカ福音書18章
私たちがみんなそうだった幼子のようになればいいんですよ。
這うことを楽しみ、積み木を楽しみ、おっぱいを飲むことを楽しみ、寝ることを楽しみ・・・
みんなそうでしたよね。
みんなしあわせでした。
幼い時は「自分の喜び」のみに従っていたのです。
幼子というのはすごいのですよ。
飛行機事故でも助かるのは幼子です。
あの状態は奇跡を起こす力があるのです。
あれが神の王国です。
飛行機事故でも死なないのですよ。
どこからそうでなくなってきたのか。
最初に「~ねばならない」という考え方を受け入れた時です。
それが失楽園です。楽園を失ったのです。「善悪の知識の実」を食べたために楽園(神の王国=しあわせ)を追われたのです。(旧約聖書『創世記』第3章)
お姉さんはきっと親や先生の言うことをよく聞く「いい子」ではなかったでしょうか。
親や先生の期待に応えようと一生懸命がんばったのではないですか。
つまり、これはいいことだ。これは悪いことだ。それに従って私はこうすべきだ。
ここではじめて「自分の喜び」以外の尺度、従うべき善悪の判断基準を仕入れたのです。
例えば「遊びは我慢して、勉強しなければならない。勉強する子はいい子だから。」という考えです。
この「自分の喜び」ではなく、「外の基準」に従うことが問題を生じるのです。
世の中はこれをいいことと教えます。
人を支配し、コントロールしたい人にとっては実に都合のいい考え方です。
「自分の喜び」などに従うべきではない。それは我がままだ。
「人に認められる立派な人になりなさい」というわけです。
自分に素直なことは素晴らしいことです。
実際、幸せな人生を歩むには「自分の喜びに素直」であることしかありません。
だって幸せとは「自分の喜びに素直」に自分の人生を創造したということだから。
それ以外に幸せになる方法などないのです。
なぜうつになるのか。
自分の喜びに素直に従っていないからです。
「外の基準」に自分を合わせてきたからです。
それは自分の幸せとは何の関係もないことです。
自分が喜びを感じることではないのですから!
さて、それを上手にこなせばこなすほど。
あなたの周囲の人にとって、あなたはとても便利な人です。
あなたは自分のことはおいておいて、「外の基準」に従ってくれる。
私の言うことを聞いてくれる。
あなたはエライ!素晴らしい!
表彰状ももらえるでしょう。
あなたはうれしくなってもっと期待に応えようとするでしょう。
そうして、だんだん自分の人生が「自分の喜び」とは何の関係もないことで構成されていくのです。
毎日忙しいです。
あなたはとても上手に「自分の喜び」を抑えて周囲の期待に応えてくれるので、とても便利なのです。
周囲の人は「あなたは立派な人だ!」「あなたはエライ!」と言い続けるでしょう。
どんどん、これもやってあれもやって!とどんどん言ってくるでしょう。
あなたはその評価を失いたくありません。
人に褒められることそこ喜びです。
がんばります。
がんばります。
がんばり続けます。
でもどんどん「これもやって」が増え続けるだけです。
あなたは笑顔で応え続けます。
・・・・
でも心の中は虚しいのです。
自分は何も満たされていないからです。
人の期待「あれもやって、これもやって」はどんどん増えるばかりです。
そしてある日、その虚しい日々に、自分のエネルギーが燃え尽きてしまうのです。
期待に応えたい。
でも、もう期待に応えられない、虚しい。
私はなんてダメな人なんだ。
無能なんだ。
私なんていなきゃよかったんだ。
そして、どこを見てもここから脱出する方法が見えないのです。
その暗闇の中でうつになっていきます。
いったいどこで間違えてしまったのか。
「自分の内なる喜び」に従って、こなかったからです。
人の期待「外の基準」に従い続けてきたからです。
いくら人の期待に応えても、どんなに上手に「外の基準」に従っても、幸せにはなれないのです。
それは「自分の内なる喜び」とは何の関係もないことですから。
そうではなくて、「自分の内なる喜び」こそ従うべきものなのです。
それしか従うべきではないのです。
なぜなら「自分の内なる喜び」こそ、幾多の転生を越えて、決して離れることのない真の親友「自分の魂」の声だからです。
あとの人は、親も家族も、兄弟も、あらゆる人間関係もあらゆる「外の価値観も」一時のはかないものです。
そんなものに従ってはいては、人生はどこにもたどり着けません。
今生ではあの人、来世ではこの人、あの価値観と幾多の転生で「自分の内なる喜び」以外のものばかりに従い続けているのです。
それこそが、自分の人生を虚しく感じる本当の理由です。
「自分の内なる喜び」こそ、従うべきものなのです。
別に立派なことでなくてもいいのです。
どんな小さなことでもいいのです。
「自分の内なる喜び」に従うことです。
従い続けることです。
私はある込み入った住宅街にある自宅を改装した、パン屋さんを知っています。
自分の子供のために、体に悪いものが一切入っていないパンを手作りして売っていました。
最初は、ただ子供がおいしそうにパンを食べるのがうれしかったのだと思います。
近所の人に分けてあげていたのか、それがだんだん評判を呼び、自宅を改装して売るようになったのでしょう。
駐車場もないとってもわかりにくいところなのですが、口コミでお客さんが広がっていきました。
それが今では表通りに、とても素敵なかわいいお店を出しています。
ただ「自分の内なる喜び」、「これ楽しいな」「素敵だな」「これやりたいな」というフィーリングに従ってきただけです。
「自分の内なる喜び」に気づき、ちいさな喜びを表現していくうちに、人はどんどん幸せになれるようになっているのです。成功できるようになっているのです。
神さまが誰でも幸せになれるように、すべての人に「自分の内なる喜び」をお与えになっているのです。
問題は多くの人が「自分の内なる喜び」に耳を傾けていないことです。
「誰かに褒めてもらうこと」「外の価値観」に従うことが立派なことだと教わり続けてきたからです。
しかし、それが上手になればなるほど、最後にはうつになってしまうのです。
「自分の内なる喜び」は必ず誰にでもあります。
実は一度も失なったことはありません。
ただ、ずっと耳を傾けてこなかっただけです。
いつも外ばかり見ていたからです。
しかし外には答えはないのです。
それが八方塞がりのうつです。
でも大丈夫です。
それはずっと自分の内にありました。
それに耳を傾けようとすればするほど、
そのメッセージを受け取ろうとすればするほど、上手に聞き取れるようになっていきます。
どうせ幾多の転生を繰り返したあげく、最終的に永遠に離れることのない真の親友、自分の魂に気づき、「自分の内なる喜び」、自分の魂を表現するようになるのです。
それしかないのです。
どうせいつか、そうすることになるのですから、
今はじめたらいいんですよ。
それこそがイエスの言う「神の王国」なのですから。
ただ、幼子のようになるだけです。
素直に「自分の内なる喜び」に従うだけです。
かつて私たちみんながそうであったように。
今日も別の方から「・・・そうですね。こうあるべき、という思いが、強い人なので、
というメールをいただいたので、うつの真の原因について書いてみました。
関連記事(欝(うつ)からの脱出とアンチエイジングの本質)
私にも現在、癌闘病中でうつ病の姉がおります。
やはり姉も、親の敷いたレールを歩いてきた印象があります。
結婚して実家を離れた途端、
親と決別したように実家にはあまり寄り付かなくなり、実家が本当は嫌だったんだろうなと言う姉の思いが見えるようでした。
結婚当初はイキイキしている感じで、実家に寄り付かずともそれで良し!みたいな気持ちが私にはありましたが、
それから数10年、夫婦、家族で紆余曲折を乗り越え、良い家族だなぁと羨ましく見ていましたが、ここ数年で姉は
うつ病、癌を発症しました。
今も姉は親に背を向けている感じにも見えるのですが
彼女の中でどんなに時間が経過しても、まだまだ解消できない「良い子にしていなければいけない」、ような思いがあってそれが結婚後、自分の家族を作っても尚、姉の人生を苦しいものにしているのでしょうか。
不満とは、幼い時に解消されていない思い(自分らしくふるまい、認められ、大切にされることなど)が大人になっても叶えられない、解消されていない時に起きるものなのでしょうか?